ニットキャップシアターにゆかりのある皆様から、
応援のコメントをいただきました!
天野天街(少年王者舘)
不浄の核弾頭、脱茎の虚無僧、呼吸困難の穴混濁にしてヒラカタの即身仏、ごまのはえが描く森を喰う多次元家族の行く末は?
なんにせよくれぐれもマヨワず成仏しておくんなまし
ウォーリー木下(sunday/オリジナルテンポ 劇作家・演出家)
ごまくんがツイッターを始めたと聞いて憤った人間は僕だけじゃないはずだ。ごまくんは以前より「ツイッターなんてやるやつの気が知れない。あいつらは(ピー)だ」と公言していた。なのに、である。これを単に心変わり、としてしまうのは早急だ。ごまくんは、僕の知る限り、誰よりも変化に敏感であり、同時に変化に簡単に流されないぞ、という強い心構えを持っている人だ。僕のニット観劇歴はずいぶんと昔からなのだけど、彼と彼の集団が作る作品世界は敏感に世の中の変化をキャッチし変化してきた。しかしその戦略(もしくは興味の移行)には、一貫して「変化への恐れ」が含まれている。逆説的だが、変化を受け入れながら同時に変化に立ち向かう、という高等テクニックに感じるのだ。それは演劇という「即時性芸術」の持つ利点を最大限活かしてる劇団であると言い換えれる。だからツイッターをはじめたごまくんにはまだまだ油断できないのだ。気がつけば誰よりもつかいこなしている可能性があるからだ。
桂文我(落語家)
「噺家のケッタイな演劇論」
ニットキャップシアターの『チェーホフの御座舞』という芝居に出演させてもらったのは二年半前で、まさか約三ヶ月後に東日本大震災が起こるとは夢にも思わず、経済は冷え込んでいながらも、何となく穏やかな日々が続いていたように思います。
私は以前から、舞台人の一人として、大勢が舞台で何かを演じて、それなりの効果を得ることに対して、「大勢で取り組んで、それだけの効果しか上がらんか? 落語や講談は舞台に一人だけ座って、千人以上のお客様を満足させることも出来るぞ」という我田引水の考えから離れられず、どうしても少数で演じる舞台芸に軍配を上げてしまうだけに、『チェーホフの御座舞』の出演依頼をいただいた時は、正直言って、気乗りがしませんでした。
結果としては、スタッフの方の熱心なお勧めと、落語会のスケジュールが優先という条件で参加をすることになりましたが、今から思えば、頼んででも参加させてもらうくらいの姿勢が正しかったように思います。
それほど、ニットキャップシアターの熱意と工夫には、目を見張るモノがありました。
落語は一つのネタを舞台に掛けると、それを生涯練り続けることが多いのですが、演劇は長時間に亘って、練習に練習を重ねながら、再演することは無いに等しいモノが多いとのこと。
「実に勿体無い!」と思いますが、割り切りの良い所に、決められた時間を充実させようという力が加わるのでしょう。
そして、ニットキャップシアターの芝居には、劇団員の人間性が如実に役柄に反映されていることを見ました。
世間がチヤホヤする名演出家と呼ばれる方の芝居を観たり、演劇論を聞いても、私には「わざとらしい」としか思えなかったのですが、ニットキャップシアターの面々の芝居は「その人が、程良く演じている」と感じたのです。
このようなことを言うと、演劇通の方には「芝居に詳しくない者が、生意気なことを言うな!」と叱られそうですが、あくまでも評論ではなく、一参加者の感想ですから、違う芸を演じている者の一意見として捉えていただければ幸いです、
とにかく、今後も伸び伸びとした芝居を演じて、私を楽しませて下さいね!
小室明子(コンカリーニョ演劇プログラムディレクター)
3月に終了したコンカリーニョプロデュース「消エユキ。」では、ごまさん&織田さんに大変にお世話になりました。慣れない大雪の中での生活、思い通りにいかない稽古、迷惑かけ通しでしたが、最終的にはとても良い作品に仕上がり、演劇界のタモリことごまさんのおいしい料理も堪能できて大満足でした。初雪の頃には思い出す、そんな作品になったなぁと思います。ありがとうございました。
短い稽古期間の中、積み重ねられていく芝居を見ながら、この画や音は最初から見えてたんだろうか、とか、頭の中どんなんなってんだろう、とか、驚嘆する日々でした。ニットキャップシアターの作品作りの一端を垣間観た気がして、今後はニットの芝居がより楽しめるんじゃないかとにやにやしています。というわけで、いやがうえにも期待が高まる「少年王マヨワ」です。6月が待ち遠しい!
サリngROCK(突劇金魚)
いつも、よくわからないところで涙が出そうになります。
舞台とゆーのは作った人の頭の中が見れることが楽しみなもので、ごまさんの舞台もごまさんの頭の中をカオスの渦巻き状態そのままで見れて、そのカオスっぷりがわけわからなくてただ楽しく見れるのですが、時にそのカオスに『生活や人間へ皮肉や疑問』と『それでも持たずにはおれない愛情』を感じるんです。だけどこの葛藤は照れ隠しか何かで隠されて見えにくくなっていて、どこで感じたのかもわからなくなっていて、更にそれをサービス精神で説明してくれようとする理屈もあってその色々がウワーッと渦巻いて更に舞台はカオスと化して、だから目の前に現れているものは一見「??!」なんですが、だけどごまさんの「疑問!愛情!隠したい!説明したい!」っていう叫びみたいなのがそこに厳然とあるから、思考は「??!」となりながらもその叫びを感覚が感じて、よくわからんところで涙が出そうになるんでしょうか。
茂山童司(狂言師)
ごまのはえはTPP参加に反対しています。
あとグローバル資本主義や新自由主義なんかにも反対です。いやホントのところは全然知らないけど。僕の勝手な想像なんだけど多分ごまさんはそうだと思う。だってニットキャップシアターはすごくローカルな場所や極端に個人的なことを扱っている作品を上演する劇団で、それを書いているごまさんの『(他でもない)ここ』へのこだわりがびしびし伝わってくるから。
そしてそういった『土着のもの』が持っている恐ろしいチカラが、国際化やら情報化されたとやら言われる現代人に向かって舞台からじっと暗い目を見開いて見つめてくる。
「お前所詮ここの生まれやんけ」
そんな声が聞こえてくる。
そしてその恐ろしく暗い正確な声から、僕は耳をそらすことができない。
白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)
先日、ニットキャップシアターを観に行きました。
舞台上では人が休まず働いていて不思議な世界を作り出していました。まるでカラダの中で休まず働く五臓六腑たちのように血となり肉となり、一人の人間を浮き上がらせておりました。
また五臓六腑たちの働きを観に行けたら行きたいと思います。頑張れ、五臓六腑たち!
鈴木理映子(演劇ライター)
ごまのはえさんは、妖精なんじゃないかと思う。というと、中性的な美少年でも華奢でもない彼の風貌を知る人は笑うかもしれない。でも、5、6年前、初めてインタビューした時に同行カメラマンが撮ったポートレイトも、草花越しのアップというファンタジックなものだったから、見る人が見ればその正体は明らかなのだろう。襖の向こうに大仏を登場させたり、部屋に閉じこもる女の脳内に「ちあきなおみの国」を作ったり、あるいは団地の造成に国造りの物語を重ねてみたり。レイヤーをペロっとめくり、「世界」の新しい顏、人の目では捉えられぬ眺めを見せるその手つきは確かに魔術的、でも、どこかケロリと達観してもいる。最近とみに顔色のいいごまさん。このごろはどこでこの世の観察を楽しんでいるのか。足元に広がる風景を、ジオラマを組み替えるように弄って遊ぶ、アヤシい笑顔が目に浮かぶ。
平塚直隆(オイスターズ)
ごまさんの作品で僕が一番好きなのは、何年か前に長久手市文化の家で行われた「カラフル3」というイベントで観た、「うんち」とかばっかり言ってる芝居で、鼻たれ小僧や絵に描いたような博士が出てくるタイトルを失念してしまいましたが、小学生男子が遊んで考えた、みたいなくだらない作品でした。あれを観た時、僕もこういう作家になりたいと思いました。子供の頃、こういう大人になりたいと思った感覚に近いものがあります。大人になると、子供の頃考えていたようなバカバカしいけどどこまでも遠く広がる自由なお話が考えられなくなってきて、悔しくて懐かしくなる時があります。ごまさんに会うと、僕はあの作品の事を思い出してしまい、悔しくて懐かしい気分にさせられるのです。今度ごまさんに会ったら僕は、お父さんと呼んでみよう。「少年王マヨワ」とは関係ない話ですが、十二月のAAF戯曲賞受賞作「豆」の演出、よろしくお願いしますね、お父さん。
びわ湖ホール職員
ごまのはえ氏は、多くの人が目を背けたり気づかないふりをしたりする、日常にひそむ暗い部分や残酷さを、生まれ育った地での個人的な体験や身体感覚をともなう記憶と重ね、優しく愛のある手つきで描きだします。それを共有し体現するニットキャップシアターは、いわゆる「地元ネタ」を、どこで上演しても共感を呼ぶ作品に仕上げることのできる、数少ない劇団の一つといえるでしょう。『少年王マヨワ』でその力がどうやって発揮されるのか、楽しみです。びわ湖ホールの『わくわく☆ドキドキ♥劇場探検ツアー』もよろしくお願いします。
松井周(サンプル主宰/劇作家/演出家/俳優)
ごまのはえさんは世界を創っています。文字通りの意味でそうです。
人間関係などに限ったことではなく、それらを含みながら、人間を取り囲む環境や生態を描かずには済まないのです。
また、人間の心理を描くのではなく、人間という種の深層にプログラムされた「物語の芽」をコリコリといじって活性化し、観察するのです。
と言っても、そうやって創造された世界は大きなスケール感のみではありません。団地にこだまするママさんコーラスの歌声が子どもたちを夕飯に誘うというような、小さなディテールに支えられています。
けれど、そのディテールがそもそも郷愁と同時にハーメルンの笛吹き男を彷彿とさせる不気味さを湛えているわけです。
とても豊かな世界です。
僕はよそ見やまわり道をしながら、その世界に浸っていたいと思っていたことを覚えています。
森田夏音(the coopeez ドラム)
人と向き合うことは
自分と向き合うことやんなあと
ニットキャップシアターの作品をみると
いつも思います
ニットキャップシアターの作るあの空間に向き合うとき
いつもわたしがそこにいます
少年王マヨワを見てまたひとり
わたしはわたしをみつけるんだとおもうと
わくわくする
そんな
瞬間がだいすきです